記憶の桜


明け方から降り続いていた霧のような雨は午後に入ってすぐにやんだ。
生暖かく湿った風の中、下校のベルと共に校舎から出た友太は
西日に照らされようやく乾きはじめたアスファルトの道を祖父母の家へと急いだ。

友太は祖父母と一緒に暮らしていた。
父はまだ友太が小さい頃に離婚して行方知れずだった。
それから女手一つで育ててくれた母は一年ほど前、
友太が小学校に入学して数ヵ月後に死んでしまった。
他に身寄りのなかった友太は祖父母に引き取られたが、
その生活はやんちゃ盛りの友太にとっては物足りないものだった。
学年が上がってメンバーが変わった新しいクラスにもまだ馴染めずにいた。
親からそう言われたのかどうしていいかわからないのか、
今まで仲の良かった友達も腫れ物にさわるように友太に接した。

自然と一人でいることが多くなった友太は、
ほぼ毎日、放課後には最終下校時刻まで図書館にこもっていた。
特に何を読むわけでもなく、広げた本を前に色々なことを考えた。
その内容といえばほとんど母のことだった。
考えれば考えるほど友太は、
病気がちだった母のことをあまり知らないことに気付いた。
母と言って思い出すのは、真っ白な肌と疲れた笑顔、
そして母が好んで飾っていた白い水仙の花だった。

よく知りはしなくても、友太は母が大好きだった。
大きな桜の木のある家の近くの公園へ二人でいつも遊びに行ったものだった。
自分が子供の頃にもその桜の下で遊んだと母は懐かしそうに話していた。
母が死んでしばらくしてから初めて一人で訪れたその公園は
それまでとは全く違うものであるように友太の目に映った。
すっかり花が落ちてしまったごつごつして冷たい桜の幹に触れると、
病室のベッドで握った骨ばった母の手の感触がよみがえり、
散ってしまった花と母の姿が重なって
友太は桜の幹にすがり付いて一人で泣いた。
それ以来、学校の帰りにその公園に寄って桜にもたれて座り、
一日の出来事を振り返るのが友太の日課となった。

午前中の雨で少し散ってしまったものの、
ここ一週間ほどはちょうど桜の満開になる時期だった。
公園に入ると雲間から漏れ出す夕日の光が桜をオレンジ色に照らし、
雨に濡れた花に反射して目もくらむほどの眩しさだった。
ふと目を移すと、白いワンピースを来た小さな女の子が根元に座っているのが見えた。
毎日ここに来ている友太も見たことがない女の子だった。
上を向いて桜を眺めていた女の子は友太が近づくとこちらに視線を移し、
柔らかく微笑んで立ち上がるとそのまま向こう側から公園を出て行ってしまった。
不思議と懐かしさを感じる笑顔だった。

翌日も公園に行くと、昨日と同じ女の子が木の下に座っていた。
友太が近づくとまたこちらに向かって微笑んだが、今日は座ったままだった。
少し離れた所に友太は腰をおろし、一緒に桜を見上げた。
しばらく無言の時間が流れたが、気まずくなった友太は女の子に話しかけた。
「桜・・・きれいだね」
「うん」
あまり女の子と話したことのない友太だったが、
この女の子はなぜかとても話しやすかった。
少しためらってから、昨日からずっと考えていたことを訊いた。
「・・・この近くに住んでるの?」
「ううん」
そう答えると、女の子は寂しそうな表情でまた桜に視線を戻してしまった。
それ以上の会話は考えていなかった友太は
何と言えばいいのかわからなくなり、同じように桜を見上げた。
薄紅色の花の間から、抜けるような青空が見えた。
雲一つない晴天だった。
「ずっと遠くに住んでるの」
上を見据えたまま女の子はぽつりとそう言った。

女の子はその後も毎日桜の下に座って花を見上げていた。
そして友太は同じように女の子の横に座り、
一日の出来事を女の子に毎日話すようになった。
友太が色々なことを話すのを、女の子はいつも笑顔で聞いているだけだったが、
話をしていると友太は何となく安心し、落ち着いた気持ちになるのだった。
友太は女の子には何も訊かなかった。訊いてはいけない気がした。
女の子も自分からは何も訊くことはなかった。

そうして一週間ほどが過ぎた今にも雨が降りそうな曇りの日、
いつものように友太は女の子の横で話をしていた。
桜はもう半分以上散って、緑色の葉が顔を出していた。
友太は、友達の自分に対する態度がみんな変わってしまったことを話していた。
「どうすれば普通にしてくれるんだろう・・・ぼくは何も変わっていないのに」
友太は独り言のようにそうつぶやき、重苦しい空を仰いだ。
暗い空を見ていると余計に気分が落ち込むようで、友太は地面に視線を落とした。
「みんな仲良くしたいと思っているよ」
突然女の子が上を向いたまま口を開いた。
友太は驚いてはじかれるように女の子の方を見た。
女の子はやはり上を見上げたまま、こう続けた。
「みんな友太くんと一緒に遊びたいと思っているんだよ」
そう言うと女の子はあの懐かしい感覚のする笑顔で友太の方を向いた。
友太はその言葉について少し考えていたが、
ふと気付いたようにこう訊ねた。
「なぜ君がそれを知っているの?」
その瞬間、女の子の表情がはっとしたようにこわばった。
「なぜぼくの名前を知っているの・・・?」
張りつめていた表情が寂しそうなものへと変わった。
そして女の子は突然立ち上がり、友太に向かって切なそうに微笑むと
白いワンピースをひるがえして走り去ってしまった。
その笑顔を見て友太は心臓を締め付けられたような感じがした。
桜にすがって泣いたあの時と似た感覚だった。
女の子の姿が見えなくなると雨が降りはじめた。
雨は勢いを増すばかりで、女の子の帰ってくる気配もなく
友太は走って家に帰った。

次の日公園に行ってみると、昨日の雨で桜は完全に散ってしまっていた。
ゆっくりと木に近づくと、地面に落ちた桜の花びらの中に、
白い花が一つ落ちている事に気が付いた。
水仙だった。
友太はそれを持ち帰って祖母に押し花にしてもらい、
紙できれいに包んでランドセルに入れた。
学校で友達に見せようと思った。

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